「うわ、このおばさん、誰ですか?」
聖ヒルデガルトも、おまえにかかっては「おばさん」か。
彼女こそ、ドイツ薬草学の祖とされる、いわば薬草魔女の大先輩じゃな。
神学者であり、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、
また古代ローマ時代以降最初の女性作曲家でもあり、中世ヨーロッパ最大の賢女と言われる女性じゃ。
古代ローマの活躍したギリシア人医師デイオスコリデスが1世紀の頃に書いた
『薬物について(De Materia Medica Libriquinque)』(俗に“マテリア・メディカ”)
という本は、15世紀まで権威ある薬草書・医薬書としてヨーロッパだけでなくイスラムの世界でも通用した。
中世の医師がそれ以外に参照できた医薬書は、聖ヒルデガルトが12世紀に著した“フィジカ(自然学について)”が唯一のものじゃった。
「す、すごいですね。手と足の指を全部使っても、1000年じゃ足りませんよお。ヒルデガルトさんがその本を書くまで、たった1冊しかなかったなんて。・・・勉強が楽ですね。」
“マテリア・メディカ”の原書は残っておらんが、写本はいくつか現存する。
写本によって収録されている数は異なるが(何しろ写しているうちに欠落もあったじゃろう)、
多いものでは約600種の薬が載っており、うち500種が薬草じゃ。
ハーブ100種で、ひーひー言ってたおまえさんが楽になるとは思えんがな。
「ひ、ヒルデガルトさんの話をしましょう」
“フィジカ”は全512項目におよぶ事物の薬効と毒性と利用法を記載しておるが、
うち植物230種と半分弱、鉱物や石や宝石や金属、あと動物由来の薬物の割合が増えておる。
「ど、どっちも読まなきゃいけませんか」
安心せい、お前さんにラテン語を読めとはいわん。
もっとも“マテリア・メディカ”も“フィジカ”も日本語訳があるがの。
聖ヒルデガルトの医学と自然学 / ヒルデガルト・フォン・ビンゲン著 、ビイング・ネット・プレス , 2002.1(新装版 .2005.10)
ディオスコリデスの薬物誌 / ディオスコリデス〔著〕 . -- エンタプライズ , 1983.5
その処方を参考にする奇特な施術者も今でもおるそうじゃ・・・。
医学史の碩学エルウィン・H・アッカークネヒトが修道院の医学を「図書館医学」と言っておるが、
中世ヨーロッパの医学の停滞は、観察よりも書物を重視する点にこそ求められる。
古代ギリシアの学識を受け継ぎアラビア科学を開花させたアラビア人たちですら、100の書物は100年の観察に勝るという言葉を残しておるよ。
手で書き写すしかない時代、書物はそれほどに貴重だったが、その書物を最初に書いた人間、
あるいは書物に載る事実を見つけた人間は、観察を重ねたのではないかね(それこそ医聖ヒポクラテスたちのように)。
書物も書き記す紙も貴重な時代ならば、なおさら、手にした情報が本当かどうかを判断してから書くべきではないか。
古代ローマのプリニウスのように、ウソもマコトも判断せずに、聞き知ったことはすべて書き記した例もないではないが
(だからこそ、今から見れば、貴重な資料となっておるのじゃが)。
プリニウスの博物誌 全3巻 --雄山閣出版; 5版版 1986.6
プリニウス博物誌〈植物篇〉--八坂書房 1994.4
プリニウス博物誌〈植物薬剤篇〉--八坂書房 1994.4
「むっ。先生、今日はなんだか、いつにもまして塩辛いですね。そういうの、流行りませんよ。今、時代はホリスティックでスピリチュアルですよ」
たとえば、“フィジカ”には、ユニコーンの角(アリコーン)が必要な処方が載っておる。
そのまま用いるには、現代の施術家には、ちとつらくないかね(竜骨なら、漢方薬局に売っておるが)。
「その際には、グリフォンの肉が混ざらぬよう注意すること」と言われても、困るじゃろ。
「か、かっこいい! わたし、そういうのにあこがれて、この学校に入ったんです!」
・・・たとえば、プリニウスの「博物誌」には、こんな記述がある。
《象が、頭の良い動物であることはよく知られている。
たとえば、こんな話がある。
あるところに芸を仕込まれた象たちの中で、一頭だけ覚えのわるいものがいた。
ある月夜の晩のこと、その象はただ一頭、芸のおさらいをしていたそうだ。
このことは周知の事実である》
「どっちかっていうと「ちょっといい話」じゃないですか!?
アタマがいいと言いながら、物覚えの悪い奴が出てきて、最後にこのどんでん返し!
(起承転結が効いてます)。タダモノじゃありませんね、プリニウスさん」
・・・・・夏の疲れが出てきたようじゃ。
「夏バテに効くお茶を入れますよ、先生! 座っててください」